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恩師 矢野浩三郎さんの思い出

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恩師 矢野浩三郎さんの思い出

 翻訳業の僕の師匠、矢野浩三郎さんについて語ってみたい。と言って、僕はさほど矢野さんのことを知らないのだ。何しろ知り合ったときはまだ大学時代で、矢野さんは「矢野著作権事務所」を作るなど極めてお忙しい方だった。一方の僕はまだ大学の八年生(!)で、剣道に熱中している時だったので、矢野さんから見ればたぶん、翻訳の話もしないおかしな男だったことだろう。

 ただどういうわけか、矢野さんは僕に親切だった。矢野著作権事務所の留守番役から始まって、日本ユニ・エージェンシーの発足時からの会員となった。セオドア・スタージョンのきみの血を(1971年)で僕がデビューできたのも、矢野さんのお陰だった、この作品は、彼の下訳者として僕が翻訳したものだった。

 彼の作品は夥しい数に上る。みなさんも当然ご存字だろうから、ここでは割愛したい。もし彼の作品の影響を受けていないと言う翻訳者がいたら、お目にかかりたいものである。僕が話したいのは、札幌でお会いしたことである。僕は53歳で北海道に移り住んだ。矢野さんがどう思ったかは定かでない。僕はただ自分のしたいことをしたいという思いに駆られていたのだ。

 僕が60歳くらいの時だろうか、矢野氏から突然電話が入り、札幌へ行くので会いたいと言うではないか。僕はもちろんOKだ。彼と僕は二人で会い、食事をし、カラオケへ行った。僕はまさか彼がカラオケへ行くとは思わなかったので驚愕したが、彼はにっこりして行こうと言ったのだ。そこで十曲ぐらい謳った。彼は日本の青春歌を低い声で歌ってくれた。そして別れたのである。彼も僕も何も言わなかった。彼は仕事で札幌に来たと、僕はそう思い込んでいたのである。

 しかしそうではなかった。これは後で奥さんから聞いたことだが、彼はわざわざお別れを言いに札幌まで来てくれたのである。彼はその後すぐに世を去った。そんなことにあとで気が付くとは……僕はしばらく涙が止まらなかった。どうして僕は気が付かなかったのか? これは紛れもなく、僕の失態である。矢野さん、すみませんでした。僕が翻訳界で生きてこられたのは、間違いなく、先生のお陰だと思っています。もし先生かいらっしゃらなかったら、僕はとっくに辞めていたにちがいないからです。本当に申し訳ありません。

 いずれ、そちらでお会いできるでしょう。またカラオケにご一緒したいと思っています。

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山本光伸プロフィール

 札幌で出版社・柏艪舎と文芸翻訳家養成校・インターカレッジ札幌を経営しています。
 80歳で小説家デビューを機にブログをはじめました。
 ロバート・ラドラム『暗殺者』、アルフレッド・ランシング『エンデュアランス号漂流』(新潮社)、ボブ・グリーン『デューティ』(光文社)他、訳書は200冊以上。

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